事故発生

 1997年(平成9)年9月28日午後2時45分ごろ、広島県呉市海岸4丁目の交差点で直進しようとした日山宏行さん(当時54歳)運転の原付バイクに、左から交差点に直進してきた乗用車が出会い頭に衝突、日山さんは数メートル飛ばされた。

 海外旅行から前日帰っていた日山さんは午前中にショッピングセンター内の写真屋に写真の現像に出していた。その写真を撮りに行く途中の事故だ。

 事故の直後から日山さんの記憶はない。

(写真は事故現場。日山さんは原付バイクで手前から交差点に入り、まっすぐ進もうとした。交差点左側から直進してきた乗用車に衝突された)

救急搬送

 電話がかかってきて「交通事故があって、おたくのご主人らしいよ」。妻の瑞恵さんはバイクで駆けつけた。救急車が到着し、日山さんが運ばれるのに合わせて瑞恵さんは乗り込んだ。救急車の中で日山さんは「痛い痛い」と叫んでいた。救急車は呉共済病院に日山さんを運んだ。

 外傷はさほどないが、鎖骨を骨折しているようだった。 「あら、頭は大丈夫じゃろか」 。交通事故の現場でさっき見た光景の中で、日山さんがかぶっていたヘルメットが飛んでいた光景を思い出した。衝突の衝撃でヘルメットが外れ、頭を地面に打ち付けた可能性がある。「頭も見てください」と医者に声をかけた。

(写真はイメージです)

緊急手術

 レントゲン室から「じっとしてください」「動かないで」などの声が聞こえてきた。そうこうしているうちに日山さんの意識がなくなっていったらしい。付き添っていた看護師がおかしいと思ったのかすぐに医者を呼んで緊急手術が始まった。

 瑞恵さんは待合室で1人になった。頭の手術だ。大変なことになった。広島市の妹に電話をかけて、息子に連絡をしてもらった。

 手術は成功したと医者に言われた。硬膜外出血と脳挫傷、鎖骨骨折、肋骨骨折という診断だった。2~3日は本当に大丈夫なんじゃろかと不安があった。しかしあとは回復して行くだけだ。

認知障害と診断され

 3カ月入院した。瑞恵さんが仕事をしていたので病院に3カ月おいてもらった。日山さんは意識が戻ってからも、最初の1カ月半くらいは自分が誰なのか、瑞恵さんが誰なのか分からなかった。自分の名前も年齢も住所も分からない。認知障害と診断された。医者からは「思い出させるのではなく教えなさい」と言われた。そこで瑞恵さんはノートに夫の名前や住所、電話番号、体の部位の名前、果物や動物などの名前を書き、時には実物を見せたりしながら覚えさせてゆく。

 1カ月半を過ぎても日山さんの回復は芳しくない。自分の名前が分からない。自分が今どこにいるか理解していない。お風呂が好きなのに、入院後初めての入浴の時お湯がかかることにびっくりして嫌がり、湯船につかろうとしなかった。風呂に入る手順がわからない。大小便の排泄さえ赤ちゃんと同様だった。まるで0歳児と同じだ。排泄に関してはオムツを持つを当て、「トイレでするのよ」と1~2歳の子供に教えるように話した。それでも治ると瑞恵さんは思っていた。厄介な障害が残るとは思いもしなかった。当時を振り返ると、日山さんは言葉は出ていたけれど脳が混沌としている感じだった。

交通事故のあと頭がぐらぐらする

 日山さんはお風呂が大好きで、休みの日は何回も入っていた。それが入浴を嫌がるようになり、2~3日に1回、促してやっと入浴する。衣服や靴下の着替えを自分からすることはなく、周囲が促さなければ何日でも同じものを着ている。

 3カ月経って退院した。自分の家だと分からないのでウロウロしていた。身体麻痺はない。しかし麻痺があった右半身は動きが悪い。やる気や根気、集中力、持続力などの「気」が全て日山さんから消えてしまった。頭がぐらぐらするので、一日中ゴロゴロと寝転がって過ごすしかなかった。日山さんによると、この当時は脳が揺れる感じで、目に見える景色全体が小刻みに揺れた。事故後7年くらいこの状態が続いたという。

わからないことばかり

 暑さ寒さで着る服装を自分で判断することができず、家族が服を出した。家族が「暑いから脱いだら」と言うと「そうか」と脱ぐ。服の表裏や後前がわからない。自分が脱いだ服がどこにあるのか、どこに置いたのか分からず、常に探している。自分の部屋の中にあるものですらなかなか見つけることができない。

 電話の扱い方がわからない。こうなると人と話したくないので、電話をかけることもしないし、電話に出ることもしない。親戚が来ても自分の部屋などにいて、挨拶に出てこない。電話があったことすら覚えていないので大事な用件のときにはトラブルになってしまったことがある。

 病院に通院しても受付の仕組みが全然わからない。診察券や保険証など日山さんにとっては全く未知のものに映った。

頭の混乱が続く

 0歳からやり直し。歯磨き粉をチューブ入りの他の何かと間違えたり、お風呂の入り方が分からなかったり、ひとりにしておけない状況だった。テレビや新聞などを読んだり見たり書いたりすることをしようとしないし、できない。

 食卓にある調味料を自分で取ろうとしない。昨日自分が言ったことを覚えていない。満腹中枢が損傷しているので、目の前にあるものは何でも食べる。動かないのでどんどん太った。食卓の上に食べ物を置いておけないので、瑞恵さんは冷蔵庫や引き出しに仕舞った。

 日山さんは目の前にないと、ないものだと思ってしまう。食料品は家の中に何がどれぐらいあるか全く覚えることができないので、日山さんは同じものを毎日買ってきてしまう。瑞恵さんがたしなめると「お前がまたワシの頭を混乱させる」や「お前がちゃんと言うてくれん。腐るものじゃないのにいちいちうるさい」などと言って怒る。

完全に治ると思っていた

 発想が幼児の程度なので、棚を作ろうとしても、板や釘などを適切に用意したり、使ったりすることができない。

 適切な言葉や考え方ができないので、聞いていて何が言いたいのか分からないし、的外れなことを言う。

 今でこそ高次脳機能障害という言葉が知られるようになり、障害が残ることが少しは知られつつある。しかし当時は落ち着いてくれば頭は元に戻ると思っていた。日数はかかるけれど完全に治ると思っていた。近所の人が病気かけがで頭を損傷した際「5年で治る」と立ち話で聞いたことがあった。瑞恵さんは夫も5年かかると覚悟した。と同時に、5年たてば元に戻ると前向きに受け止めた。

精神的な不安定が続く

 日山さんは自宅療養に入ったが、ほとんど寝てばかりである。食事を用意しても食事を勧めなければ食べないことがあった。外出に連れ出しても赤信号で渡ろうとするなどした。瑞恵さんは仕事に行かなければならなかったため、日山さんはひとり自宅で過ごす。日山さんにとって精神的な不安が大きかったようだ。

 1998(平成10)年3月、近所の中川脳神経外科病院に1カ月ほど入院した。精神的に不安定で、瑞恵さんが仕事に出ている間ひとりで過ごすことに大きな不安を抱えるなどしていたため、心理学的療法や生活指導を受けるのが狙いだ。大勢の人の中に入ることで日山さんは安心感を得たようだ。しかし外に出ると道に迷う。相変わらず自分がどこにいるのか分からない。日山さんは涙が出た。昼間に先生や看護師さんと話したことが理解できなかったり記憶できなかったりするので、瑞恵さんに後で伝えることができない。

(写真はイメージです)

分からないことばかり

 瑞恵さんが仕事に出かけるとき必ずと言っていいほど「何時に帰ってくるか」と聞いてきた。妻の帰りをひたすら待つ。留守番をする幼児のような心細さを見せた。帰宅が5分遅れても機嫌が悪くなった。それほど待ち焦がれていたのである。食事をしても味覚がはっきりしないので味の濃い同じ物ばかり食べる。

 ひとりで出かけたり公共交通機関に乗ることができない。市内バスの乗り方を教えても覚えることができい。どこ行きに乗ってどこのバス停で降りればいいのか分からない。

 公共施設でのトイレの使い方が分からない。例えば出入り口の開け方や水の出し方などが分からない。

 建物の構造を頭の中で組み立てられないので、どこが出入口でどこをどう歩いているのか全く分からない。預金の仕組みや給料の振り込み、銀行からのお金の引き出し方などを説明されても分からない。

先行き不安

 瑞恵さんは日山さんに家の掃除や庭の草取りをさせようとした。しかし難しかった。庭の草むしりを瑞恵さんと一緒に始めたが、数分で飽きてしまい、家の中に入ってひとりでビールを飲んでいる。「もう少し草むしりをしよう」と声をかけるが日山さんは「お前がせい」と言うだけで外に出てこない。

 大型ゴミをゴミ置き場まで運ぶのは瑞恵さんの仕事だ。日山さんはついてくるだけで知らん顔をしている。これでは夫婦が不機嫌になって喧嘩になってしまう。どうしたらいいのか。瑞恵さんは先行きが不安になった。

 訪問看護を利用しようとしたものの、日山さんは訪問看護者が来ることを理解できず、結局利用できなかった。

(写真はイメージです)

衝動買い

 自己中心的になり、正しいのは自分で間違っているのは自分以外の人という考え方をする。特に瑞恵さんに対しては風当たりが強くなった。電車に一緒に乗ったとき日山さんが足を組んで座った。隣の人の衣服に日山さんの靴が当たる。瑞恵さんが注意したが夫は知らん顔をする。電車の中で日山さんが大きな声で話すので「小さな声でしゃべるように」と声をかけたら、ますます大きな声を出した。

 お金の使い方は、高いものはあまり買わないが、安いと思ったら衝動的に買う。「いくら安くても必要ないものはいらない」と注意すると日山さんは怒った。日山さんの思う通りに買い物させると随分無駄が多くなる。スーパーで「これはいらない」と制すると「安いのになんぼあってもええが」と大きな声を出す。瑞恵さんはそのたびに恥ずかしい思いをした。

 お金がなくなったら瑞恵さんは日山さんに渡していたが、日山さんは他人に「妻がお金をくれない」とこぼした。日山さんが買ってきたものを瑞恵さんも食べることがある。それを「とられたような気がする。面白くない」と言う。

電話の内容を忘れてしまう

 事故当時の日山さんは会社員だった。外部の業者と関わって部品調達の仕事をしていた。事故のあと1年4カ月ほど休職した。

 復職して半年ほど会社に行った。直属の上司である課長がとてもいい人だった。共に苦労して仕事をしてきた人だった。交通事故の前は部品管理の業務をしていたので、倉庫の部品管理の仕事を与えてくれた。

 しかし電話がかかってきてもメモを取ることができない。電話で話す行為とメモをとる行為の2つの行為を同時にすることができないのだ。受話器を置いたら、話した内容を完全に忘れてしまう。

(写真はイメージです)

仕事ができない

 体が疲れる。職場に行っても何もできずぼーっとしているか寝ているしかない。

 物忘れをする。覚えることができない。何かの見通しを立てることができない。順番が混乱してしまう。計画的な行動をする能力の低下。複数の作業を並行して処理する能力の低下。行動が緩慢。手や足の動きが不器用。走ることができない。飽きっぽい。決められたことを継続することが難しい。

 これでは自分は仕事ができない。日山さんは落ち込んでいった。

 課長は「会社に来ればいい」と言ってくれた。日山さん夫妻が「いずれ必ず治る」と信じていたのと同じように、課長も「いずれ回復する」と信じていた。しかし日山さんにとって職場は苦痛の場になってしまった。

休職

 復職して半年後、仕事ができないので会社を辞めようと思った。瑞恵さんと一緒に日山さんは課長のところに行って退職を申し出た。課長に「辞めるのはいつでもできるから」と思い止まらされた。そこで休職の形をとることにしてもらった。給料はないが会社に籍を置いてもらう形だ。

 日山さんの精神状態はよくない。うつ状態、引きこもり状態になった。

死にたい

 それまでは「なぜ自分が何もできないのか」という自覚がなかった。それが「なぜできないのか」と自覚するようになった。事故当初は自分が事故にあったことを理解できなかったが、それが分かるようになってきた。何もできないことを自覚すると落ち込む。自覚は死への誘惑という危機を招いた。海岸を散歩していると「飛び込みたい」や「どこかに松木はないか」と漏らした。

 頭の中は「死にたい死にたい 。心の中がグジャグジャで、人のいないところで一人ボロボロ泣いた。瑞恵さんは安否確認の電話をかけた。日山さんが電話に出たら「あ、生きてるんだ」と安堵する毎日が続く。

 この頃のことを日山さんは振り返る。「死にたいという気持ちは心を病んだからではなく、脳から来る。高次脳機能障害で絶望して死ぬ人がいる。私がそうだったから、死にたい気持ちはよくわかる。しかし時間はかかっても少しずつ少しずつ良くなることがある。諦めないでほしい」と強調する。

給料と傷病手当てと休職と

 家計の話をしておこう。最初の数カ月は給料の8割くらい支払われた。その後は傷病手当てが出た。休職後は収入が途絶えた。会社からは退職の打診があった。出かけるところがなくなったこともあり、日山さんはうつ状態になった。

 休職中に職場の同僚が見舞いに来てくれることがあった。その時は話を一生懸命するのだが、帰ったあと心が疲れて気持ちが落ち込んでしまい涙ぐむ。そんな日山さんを見て瑞恵さんは胸が締め付けられた。「いっそ退職してしまった方が夫の心も救われて楽になるのかしら」と瑞恵さんは迷った。しかし夫が仕事に復帰する思いを持っていたので、夫婦で悩みながらも、休職させてもらっていることに後ろめたさも感じながら、くじけそうになる気持ちを奮い立たせた。

妻の奮闘

 幸いなことに瑞恵さんは公務員だった。それまで2馬力の収入が1馬力に減った。「私は仕事をやめられない」と妻の瑞恵さんは思った。

「夫が高次脳機能障害になってからというもの、甘えたことを言うとれん。私が働かないと生活できん。私が一家の主として金銭面も他の面もしっかりせんといけん」と思った。

 1999(平成11)年7月、瑞恵さんは一念発起して車の免許を取得した。日山さんが一人で通院できないので、自分が送迎するしかない。

(写真はイメージです)

話の理解に時間がかかる

 2000(平成12)年3月、示談1回目は不成立だった。

 車で出かけても途中で気分が悪くなる。人混みの中などで頭がぐらぐらして落ち込んでゆく。体が思うように動かない。早く帰りたがる。

 5月に国立呉病院精神科を受診した。薬の量が増えてゆく。

 2000(平成12)年6月。保険会社から示談を迫られ、精神症状を後遺症と思わず自賠責12級で示談した。その翌月、国立呉病院精神科に入院した。入院すると精神が安定する。検査の結果、IQが下がっており、「とても手仕事のできる状況ではない」と告げられた。

 9月に退院した。好きだったギターを買ったが、指が思うように動かないのですぐにやめた。公民館でやっている卓球に瑞恵さんは夫を連れ出したが、思うようにできないためやめた。ピンポン玉を追いかけることができない。打つことができない。身体のバランスをとることができない。

 作業所を探したが難しかった。そんな中でテレビを見たり音楽を聴いたりできるようになった。ほんの少し何かに集中することができるようになってきた。

 昔話ならできるが、これからの事や今後のことなどの話になると的外れの答えになる。何度も同じことを聞き返したり、すぐに理解できるような内容でも理解できるまで何度でも聞き返すなど、時間がかかる。

大声で怒鳴り感情のコントロールができない

 2002(平成14)年5月、同級生が誘ってくれて飲み会に参加した。ところがワインをジュースだと思って立て続けに2杯飲み、急性アルコール中毒で救急車で運ばれた。「とても甘くて美味しい飲み物だった」とあとで言っていた。まだまだ1人では行動させられないと瑞恵さんは痛感した。11月、犬を連れて初めて散歩に出た。涙ぐむことが減ってきた。

 ある日の『中国新聞』に高次脳機能障害の記事が出ていた。日山さんが記事を読んで「この人の症状は自分の症状とそっくりじゃ」。その記事には西条の県立病院が載っていたのでそこの病院できちんと診てもらおうと決意した。5年で良くなると思っていたがなかなか良くならない。事故から6年目のことである。2003(平成15)年1月に受診して、通院を始めた。

 この年の3月に会社を定年退職した。このころも大声で怒鳴ったり感情のコントロールができなくなったりである。県リハで高次脳機能障害と診断された。

 眠れないと訴えるが、実際は夜8時から9時頃には寝て朝の3時から4時には目覚めている。昼寝をしているので睡眠時間は十分足りているはずなのだが日山さんは納得しない。

突然怒りだす夫、苦悩する妻

日山さん夫妻(2016年撮影)

 2003(平成15)年6月ごろから、些細なことでかっとなって瑞恵さんとケンカをすることが多くなった。暴言を吐いたり大声で叫んだりする。感情が爆発的で、ちょっとしたことで切れる。普通に会話をしていても何かの言葉に引っかかり、突然怒り出す。「難しいことを言って自分の頭を混乱させる」や「分からん思うてそんな言い方をする」、「またわしを怒らすんか」、「大きな声しちゃろうか」とけんか腰の言葉を瑞恵さんにぶつける。

 例えば日山さんが「財布を知らんか」と聞き、瑞恵さんが「さっきたばこを買いに行ったでしょ。帰ってきてどこに置いたん」とでも言おうものなら大変なことになる。「分からんけぇ聞きよるんじゃないか。お前の言うことは答えになっとらん。お前はまたワシの頭を混乱さす」と言ってパニック状態になる。日山さんは自分が正しいと思っているので、瑞恵さんがたしなめたり筋道や考え方を話そうと思っても、聞く耳を持たない。瑞恵さんが話そうとすると大声を出し、瑞恵さんが黙るまでエスカレートしていく。瑞恵さんが黙ると「お前は大きな声を出さにゃ分からんのか」と言い、妻を制することができたと受け止める。

 瑞恵さんに頼らずに何かできたことを褒めると、「お前はそう言うて、わしにまた何かさせようと思うとる。できんわしをすぐそうやって使おうとする」と言って怒るので、褒めることもできない。

 電車の中で大きな声で話しかけてくるので小さな声でと言うと、さらに大きな声を出して「どした! しゃべるな言うんか。もっと大きな声でしゃべっちゃろうか」と怒る。瑞恵さんは恥ずかしく、情けなくなる。

(写真は日山さん夫妻。2016年撮影)

頭がクラクラガンガンする

 日山さんはどこでもどんな時でも子供を見ると話しかけて名前を聞いたり年齢を聞いたり発育状況を聞いたりして相手に不快感を抱かせたり失礼で幼稚なことを言ったりしてしまう。小学3~4年の女の子を自宅に招きいれて、犬や鳥、金魚を見せたり、一緒にピアノを弾いたり、トランプ遊びをしたりしていることもあった。注意しても聞かない。

 飼育動物が増え、ウサギやチャボまで飼いだした。ただし鑑賞するだけで世話をしたり掃除をしたりすることはできないので家の中がどんどん不潔になってきた。

 小さな女の子と2人だけで家の中にいることを少し控えるように話したり、動物にはただ餌をやればいいわけではないと話したりしても、日山さんは平然としていて、瑞恵さんの言葉を全く受けつけない。生き物が死ぬと「どうして死んだのか」と不思議がる。こんな調子では不審者と思われないだろうかと瑞恵さんはハラハラした。近隣で不審者情報が出れば夫ではないだろうかとそのたびに心配した。

 動物の次は植物を買ってくるようになった。しかし水やりをせず、少しの間眺めては枯らしてしまう。植物には水やりが必要だと話すと「お前がやれ」を言って日山さんは知らん顔をする。

 初めての場所や人混みの中では状況判断ができず目が泳いだようになり、迷子と同じ状況になる。とても不安な状態で目が回る。怖いと感じる。スーパーに行くと困ったようになる。自分のいる場所や出入口などが認識できない。瑞恵さんはゆっくり買い物ができない。

 日山さんはかつて大好きだったパチンコが苦手になった。店の中に入ると頭がクラクラガンガンするし、パチンコ台を見ると頭の中がぐるぐるする。

(写真はイメージです)

高次脳機能障害の家族会との出会い

 西条の広島県立身体障害者リハビリテーションセンター(当時)の待合室で高次脳機能障害の家族会のパンフレットが目についた。家族会の会長である浜田さんさんに連絡をしたところ、「12級なんてことはない」と言われた。

 症状固定日は1999(平成11)年12月3日。傷病名は「急性硬膜外血腫、脳挫傷」。自覚症状は「めまい」。精神・神経の障害他覚症状および検査結果は「意欲の低下、うつ状態」「CTにて左大脳基底核に脳挫傷による瘢痕と考えられる低吸収域を認める」。これをもとに加害者側の保険会社と示談していた。

 高次脳機能障害という言葉も何も知らなかったし、事故後不十分ながら歩くことはできるし話をすることもできる。したがって等級が12級と言われれば、それを受け入れるしかなかった。

 会長の浜田さんに「再検査をしてもらったら? そうすれば高次脳機能障害だと分かるはずだから。高次脳機能障害に詳しい弁護士を紹介する」と言われ、中井弁護士を紹介してもらった。

精神福祉手帳2級

 日山さん夫妻が中井法律事務所に初めて相談に来たのは2003(平成15)年7月4日だった。中井克洋弁護士は日山さんと委任契約書を交わして、受任した。

 中井弁護士は詳細ないきさつを聞いた。後遺症の状況に沿っていないにもかかわらず、賠償が低い。中井弁護士は納得がいかなかった。しかし、当時すでに示談が成立していた。やり直しは無理だが、日山さん夫妻の辛くて重い生活を知ると、黙っていられない。考え得ることは全部やろう。

 自賠責に対して異議申し立てをする方針を決めた。当時は高次脳機能障害に詳しくない医師が後遺障害診断書を作成し、それをもとに日山さんは「後遺障害12級12号」と認定されていた。

 症状と等級を決める『民事交通事故訴訟 損害賠償額算定基準』(日弁連交通事故相談センター東京支部)によると、12級12号は「局部に頑固な神経症状を残すもの」である。日山さんの実情と相当異なる。しかし、この等級をもとに損害額が算出され、賠償額が提示され、示談が成立した。このような事故も認定も初めてだった日山さん夫妻には疑問を差し挟む知識も経験もなかったので、示談はやむを得なかったのである。

 日山さんが中井法律事務所を訪ねたころも県立身体障害者リハビリテーションセンタ(現在の県立障害者リハビリテーションセンター)に通院していた。身体面の障害については県リハに診断書を書いてもらうことができるとして、精神科医の見解も得る必要があるということになり、 当時の広島県立保健福祉大学附属診療所に行き、高次脳機能障害に詳しい横田則夫医師の診察を受けることになった。

 小林克至助手は中井弁護士と相談しながら横田医師に日山さんの診察を依頼するメールを送った。2003(平成15)年9月1日から2004(平成16)年5月31日までの間に横田医師は日山さんを計12回診察した。

 この結果、精神福祉手帳2級を日山さんはもらうことになる。

等級が大きく変わった

 中井法律事務所は日山さんの通院履歴が分かる診断書をかき集めた。呉共済病院からは「傷病名 急性硬膜外血腫(術後)、脳挫傷」や「上記にて平成11年12月4日より平成12年5月31日まで通院治療を行った(実日数8日)」という診断書を得た。呉医療センターからも詳細な診断書を得た。このほか、県立身体障害者リハビリテーションセンターの診断書など、日山さんが通った医療機関の診断書を集めていった。

 こうした診断書を踏まえて、2004(平成16)年12月1日に新しい書類をそろえて広島自賠責損害調査事務所に異議申立書を出した。異議申し立てをする場合、前回認定された際の診断書そのほか、さまざまな資料の提出が求められる。当時は手書きのカルテの保管期間が10年だったおかげで、日山さんの場合事故から6年ほど経っていたが、資料が全てあったのは幸運だった。この資料が、1999(平成11)年の症状固定日の翌日以降も日山さんが継続して治療を受けていることを明らかにした。

 さらに、県立身体障害者リハビリテーションセンターの後遺障害診断書や県立保健福祉大附属病院の後遺障害診断書、心理士による社会生活困難度評価報告書などをもとに「3級3号」に該当するとして中井法律事務所は異議を申し立てた。添付書類は計20点近くに及ぶ。

 3級3号は「自宅周辺を一人で外出できるなど、日常の生活範囲は自宅に限定されていない。また声かけや、介助なしでも日常の動作を行える。しかし、記憶や注意力、新しいことを学習する能力、障害の自己認識、円滑な対人関係維持能力などに著しい障害があって、一般就労が全くできないか、困難なもの」である。

 異議申し立てをして7カ月ほど経ったころ、広島自賠責損害調査事務所から2005(平成17)年7月12日付で3級3号が認定されたという書類が郵送されてきた。

 等級が大きく変わったのである。日山さん夫妻にとって救いになる判断だった。と同時に、高次脳機能障害の完治の難しさを示すことにもなった。

(写真は、広島自賠責損害調査事務所が入居するビル)

全面勝利

 広島自賠責損害調査事務所の新しい認定が出た1週間後、中井法律事務所は加害者が加入していた任意保険会社に対して「すでに示談しているが差額のこれだけを払ってください」という申し入れをした。3カ月待ったが、示談交渉は残念ながら不調に終わった。

 そこで中井法律事務所は2005(平成17)年12月13日付で広島簡易裁判所に調停を申し立てた。日山さんと加害者側はいったん和解しているものの、事故当時から高次脳機能障害の症状が出ており、和解を前提とした12級ではなく今回新たに認定された3級を前提とするべきであるなどとして、増額を求めたのである。

 調停を申し立てる事案は多くない。一般的には加害者側の損保会社と中井法律事務所のやり取りを通して、被害者側も納得する金額に到達すればそこで新しい示談が成立する。しかし、今回はそうならなかった。

 中井弁護士は当時を振り返る。「ハードルが2つありました。その1つの等級認定が変わって安心しましたが、もう1つのハードルは上乗せ分をどれだけ得ることができるか、でした。これは裁判所の力を借りざるを得なかった。裁判所が言うのだから仕方ないという方向に持っていくしかないと思ったのです。しかし裁判になると黒白を決することになってしまう。そこで調停を求めました。調停で裁判所の力を借りて和解勧告をもらえば、相手側に話しやすいからです」

 中井法律事務所が主張したのは、日山さん側は事故当初から労働能力を100パーセント失っており、それを踏めて損害を算出すべきであるということだった。

 一方加害者側の主張を整理するとこうなる。
・事故当初から日山さんに重い高次脳機能障害があり、労働能力喪失率100パーセントだったという証拠はない
・12級が認定されてから5年も経って3級と認定されている。事故当初から3級だったのではなく、事故当時は12級でそのあと5年経過したあと3級にまで徐々に悪化した
・12級で示談した際、その損害賠償額で日山さん側は納得したのだから示談は有効であり、解決済みだ
・不満があったのなら訴訟すべきだった。訴訟しなかったのは、日山さん側は損害賠償請求権をいったん放棄したということだ

 2006(平成18)年1月30日の第1回調停を経て、5月15日に調停が成立した。日山さん側の訴えを全面的に認める内容だった。日山さんが認定された新しい3級3号に基づく損害賠償金の支払い義務が加害者側にあることが決まったのである。

 日山さん側の全面勝利だ。

被害者の権利を守るために

 障害の実態に即した日常生活の状況報告書を家族に作成してもらい、高次脳機能障害に詳しい医師に後遺障害の内容や程度の判断をしてもらう筋道をつけることを、家族に対してアドバイスできるのが広島メープル法律事務所(元中井法律事務所)の強みだ。そこには蓄積されたノウハウがあるから正しい等級が認定される自負がある。

 高次脳機能障害のモデル事業が広島で始まったのは2002(平成14)年だった。厚生労働省に脳外傷友の会が働きかけたこともあり、広島県でスタートできた。それまでは被害者はどこの病院に行けばいいか分からなかった。医師が高次脳機能障害を知らなかったので、高次脳機能障害という傷病名を書いてくれる医師も少なかった。

 拠点病院にたどり着いた人はまだいい。しかし拠点病院以外の病院に高次脳機能障害を理解している医師がどれくらいいるか。高次脳機能障害を理解している医師でないと、実態に則した診断書を書いてもらえないことも多く経験している。実は脳外科やリハビリ科に高次脳機能障害を専門とする医師がいるとは限らない。このような事情により正当な賠償金を被害者が受け取ることができない可能性がある。

 高次脳機能障害に詳しくない弁護士の受任によって、家族が自分たちの書く日常生活状況報告書の意味を知ることなく、高次脳機能障害に詳しくない医師のところに行って診断書が作成されたらどうなるか。そのような診断書では被害者の心身能力の低下や生活の疲弊ぶりを自賠責調査事務所に伝え切ることができない。そのせいで実態より低い等級が出てしまうと、任意保険会社からの最終の賠償金が1000万円単位で低い金額になることがある。被害者側にとってあまりに過酷である。

 弁護士に依頼すると高額の費用がかかるというイメージがあるのか、弁護士を活用することの重要性がまだ広く知られていないのか、被害者が弁護士に依頼しない事案がまだまだあるように広島メープル法律事務所は感じている。自賠責基準で計算された低い金額に少し上乗せされて「特別に50万円のせておきます」などと言われ、示談してしまっている被害者がまだまだいるのではないか。

 実態は高い等級であるはずの高次脳機能障害なのに、正しい金額を受領できないまま示談書に署名捺印していると、被害者にとっても社会正義に照らしても大問題だと言わざるを得ない。

 交通事故に遭い、高次脳機能障害を負うと、本人はもちろん、見守りをすることになる家族も大きな負担を抱え、生活が一変する。いや、人生が一変すると言っても決して大げさではない。

 被害者側や法律事務所ができるのは、せめて経済的負担を軽くすることだ。これは被害者の権利なのである。

 日山さん夫妻は述懐する。

「私たちだけでは何もできなかった。中井法律事務所のおかげです」

(日山宏行・瑞恵さんの事例編おわり)