娘と私の歩み

ある日突然の事故から

 1993(平成5)年、下の娘が大学1年の秋にバイク事故に遭いました。アルバイトの帰り道、最終電車から自宅までのわずかな距離をバイクを利用していました。上り坂の緩やかなカーブ、信号は時間的にもう消えていて、相手の車は飲酒運転で、免許取りたての大学生でした。

 衝突したはずみで車のフロントに乗り上げ、頭がフロントガラスにぶつかった時にヘルメットが外れ、そこから道路へ後頭部からたたきつけられたようです。病院へ駆け付けた時はCT検査の最中で、手術をするわけではなく、そのままICUへ運ばれました。脳内出血、脳挫傷、肺挫傷、大腿骨骨折という診断で、医師から見せられた脳の画像は、星のように白い点々が見えたのが、脳内出血の跡だったと後でわかりました。

 やっと娘に会えた時は、全身が内出血のため真っ黒、顔もはれ上がり首が分からないほどで、変わり果てた娘がわが子とは思えないほど。大腿骨骨折もあったため、足は大きな錘で引っ張られておりました。

 治療はただ点滴が続くばかり。意識のない状態が1週間ぐらい。目が明いても焦点が合わない状態で、言葉も出ませんでした。

 意識が少し戻った時に足の手術をしました。視線がやっと合い始めても言葉が出なくて、ただにこりとするだけ。失語症があるのかと気になり、いろいろ調べてもらいました。

 そんな時、入浴の際に手の傷にお湯がしみて「痛い」と言っているようだったので、「声を出してごらん」というとやっと「痛い」と絞り出すような声が。それからは友達がお見舞いに来るたびに良くしゃべるようになりました。

 歩行訓練が始まると身体的にはみるみる回復してきました。でもその頃は、脳に対しての今のようなリハビリはなく、家族や友人がやっていたように思います。たとえば、お箸が持てるなら鉛筆が持てるということで、自分の名前や家族の名前、住所などが書けるように教えました。CT画像を見ながら担当の医師は「良くなっても低学年レベルかな」と言います。この子の姉が、そんなことでは困ると計算ができるのかと問題を解かせたり、病室にゲーム機を持ち込ませてもらってマリオのゲームをお姉ちゃんとやったり、私は編み物をやらせました。

 元々セーターを編んだことがあったので、まっすぐ編むところを自分で編んで、入院中にセーターを1枚編み上げました。意欲のないころには、大学の英語の教師(カナダ人)が週2日はお見舞いに来てくださり、2時間ぐらい娘と英語で話したり友達からの手紙を読むように促したり、今考えると素晴らしいリハビリだったなと思います。

 こんな入院で5か月後には杖は突いていましたが歩いて退院しました。その後2週間で大学に復学をしたのです。

脳の後遺症については何も知らされていなかった

 退院時に障害については何も聞かされていませんでした。前述したように担当医から「良くなっても小学生低学年レベルかな」と言われましたが、その後の回復を見て、友人との会話など普通になっていると見えましたので、本人は「学校へ戻る」、私たちも「それが当たり前、このまま良くなっていく」と思っていました。

 ただ、その後の家での様子が、なんだか今までの娘ではない言動があり、変だなと思っていました。たとえば、友人からの電話が異常に長く、相手の言葉に誘導されるように、ちょっとした友人の悪口だったと思うけれど、それに対して、今まで言ったこともないような人をなじるようなことを言っていたのです。これは変だ、このままでは友達を失うと思い、いさめたのですが、「お母さんに何が分かるの!」と激怒した顔つきは今まで見たこともない表情で、驚いた記憶があります。

 その後やはり友人は一人もいなくなり、記憶障害のせいで、薬の飲み忘れからてんかん発作を起こし、学校へ行けなくなり、ついには退学することになりました。学校でどんなふうにしていたのか、当時は私自身障害が分からなかったので、様子を見に行くこともなかったのですが、本人が後に言ったことは、「講義は早すぎて何を言っているのかわからない」、「周りの声がうるさすぎて、結局静かな図書室にいつもいる」という状態だったようです。

 その後、家に引きこもってはいけないと思い、障害者のための喫茶店を経営している友人から声をかけられ、ボランティアで関わらせてもらいました。ところが、オーダーが覚えられない。お客さんが多くなるとパニックになって何もできない。娘の対応に手を焼いていた友人から「もっと違う支援をお母さんが本気で探さなければどうにもならない」と言われ、考えてしまいました。

 その年から7年間いろいろ情報をと思いはしましたが、ネットがあるわけでもなく、本を調べても当時は何もなかったのが実情です。情報がないことに一番苦しみました。2000(平成12)年、この子の姉が、『読売新聞』の連載「医療ルネッサンス」の記事をたくさんまとめて送ってきて、それを読んだとき、とにかく名古屋へ行ってみようと思いました。

家族会のあゆみ(家族会設立の思い)

家族会設立

 2001(平成13)年、名古屋のセミナーに参加して初めて高次脳機能障害だと確信しました。その後、「みずほ」=全国に先駆け1997(平成9)年に名古屋で立ち上げられた家族会=の会員だった広島の人たちの名簿が、私のところに送られてきました。5名の方に連絡をして交流が始まりました。丁度同じころ北大におられた丸石先生(のちの広島県高次脳センター長)から5月から「広島県立身体障害者リハビリテーションセンター(現広島県立障害者リハビリテーションセンター、以下“県リハ”と称す)で高次脳機能障害の診察を始める」と電話がかかってきて、家族会の設立を勧められていました。高次脳機能障害のわかる先生が県リハに来られたと、大喜びでした。

 そんな折に名古屋のみずほから会報が送られて、その中に全国10拠点でモデル事業が始まっていること、その拠点病院が中四国地域にはどこにもないことを知り、あわてました。どうしたらモデル事業を実施してもらえるのか阿部順子先生(当時名古屋市総合リハビリテーションセンター臨床心理士) にお聞きすると「まず家族会を設立して県へ要望すれば、広島でもモデル事業を実施してもらえるかもしれない」と言われました。

 拠点になる病院と医師はある、あとは家族会設立だけという状況になり、交流が始まったばかりの家族会は何もわからないまま県知事陳情へ。2002(平成14)年度から広島県でもモデル事業が始まったのです。こんな経緯で、私は何も高次脳機能障害のことを理解しないまま動き出したのです。

 それからというもの、日本脳外傷友の会からいろいろ情報が入り、家族会設立前に東京へ行き、全国の会の皆さんと厚労省の坂口厚生大臣にお目にかかりました。皆さんがいろいろ話されていることは全く訳が分からない状態でしたが、とにかく家族会を設立して、社会へ啓発しなければという思いは理解できました。

 家族会は毎月の交流会、啓発として講演会の開催と会報の発行を行い、メディアを通しての高次脳機能障害への理解を進めました。日本脳外傷友の会と連携していたので、いろいろ情報が入ります。

 私の娘も県リハで高次脳機能障害と診断をされましたが、「この状態では手帳は取れない」と言われ、がっかりしました。人づてに奈良の山口クリニックの山口研一郎先生の事を知り、お手紙を書いて診察をお願いしました。奈良まで3回ぐらい診察に行き、手帳の取得ができました。山口クリニックの3階では「奈良脳外傷友の会あすか」の家族会の活動があり、グループの訓練にも参加させていただきました。こんな支援が広島でも出来たらいいなと、とてもうらやましく思いました。

クラブハウス・シェイキングハンズ 作業所設立のきっかけ

 リハビリを受けられる病院はできたけれど、当事者が毎日出かける場がほしいという意見が家族から出始めたころ、ちょうどタイミングよく、できたばかりの有料老人ホームの一角を無償で借りることができました。作業所を始めるときに関わっていただいた作業療法士さんは、奈良の山口先生から紹介され、山口クリニックで高次脳機能障害者のグループリハをされていた方で、ご主人の転勤で広島に来られた方でした。そのOさんが手伝ってくれました。そしてモデル事業の一環として作業所作りにと、半年ほどの間、少しの予算が付いたのでパートを一人雇用しました。毎日活動を続けたため、半年後には広島市から精神障害者共同作業所として認可を受けることができ、作業所の職員としてスタッフを雇用することができるようになりました。

 とはいえ内容については本当に試行錯誤でした。家族のボランティアがあったから、続けることができたのです。

高次脳機能障害者が通える施設クラブハウス・シェイキングハンズとは

法人事業としての活動の流れ

 当法人では3つの事業をしています。

 2006(平成18)年に自立支援法が始まり、作業所の運営には法人格を取ることが必要となり、その年にNPO法人高次脳機能障害サポートネットひろしまを設立、とりあえずクラブハウス・シェイキングハンズ(略称クラブハウス)の運営を行えるようにしましたが、家族会は任意団体のままでした。

 どちらの団体も私が代表でしたが、作業所を利用する家族と利用しない家族がありますし、団体が二つに分かれていると、関わる人たちが分裂してしまいます。このままではどちらもつぶれてしまう、何とか統合しなければと思っておりました。

 この時点で私はまだNPO法人が何をする団体でどんなことを理解して活動すればよいのかわかっていませんでした。わからないなら勉強しようと、いろいろ本を読みました。「世のため人のためになる事業を実施する」。これが大きな目的です。NPO法人であることのメリットとデメリットを役員と協議し、時間をかけて、理解してもらいました。役員の中には「自分の頭のハエも追えないのに世のため人のためにできるか」と言って辞めて行った人もいます。
 
 2010(平成22)年に、それまで無料で借りていた老人ホームを出ていかなくてはいけなくなり、次の場所を広島市の真ん中で、高次脳機能障害者が通いやすい立地条件の場に移転しました。

 2011(平成23)年クラブハウスが自立支援法に基づく福祉サービス事業へ移行するときに、家族会をNPO法人に統合することを総会に諮り、承認されました。役員にゆっくり時間をかけて納得してもらったため、もめることがなかったのは良かったと思っております。現在、家族会の役員はわたしを入れて6名おります。組織統合したことで、役員が活動する際の交通費を支給できるようになりました。また、家族会役員は相談を受けており、そこで責任のある発言をしてもらうために、勉強をしてもらっています。そうした研修会に参加するための費用も法人から出しています。

 この図がクラブハウスの地図です。広島市内からアストラムラインで20分、広島市のベッドタウンの駅店舗にあります。

 自立支援法に基づいた福祉サービス事業として、クラブハウス・シェイキングハンズが就労継続支援B型と就労移行支援の多機能事業所になりました。

 移行してからは職員も、正規職員が3名、パートが2名、社会福祉士、精神保健福祉士等資格のある人を雇用しております。高次脳専門アドバイザーとして広島都市学園大学の教授(言語聴覚士)に週1日来ていただいております。昨年1年間は週4日来ていただいていたのですが、大学の仕事が始まり、残念ですが週1日になりました。元々広島県立保健福祉大学の先生でしたが、辞められて、当法人へ就職していただいたのですが、言語聴覚士としては素晴らしい先生だったので、世間が放っておかない。新しく広島都市学園大学言語聴覚専攻科長として就任されました。ただ先生としては、サポートネットへの協力はライフワークで続けたいと言われ、現在も一緒に活動していただいています。

 高次脳機能障害に特化した施設として、高次脳機能障害の特性に合わせた訓練という視点をしっかり持った作業所でありたいと考えます。彼らに就労してもらうためには何が必要なのか、基本はアメリカニューヨーク大学ラスク研究所やイギリスヘッドウェイのプログラムなどを参考にさせていただいています。

 NPO法人の行う啓発事業として、講演会の実施を昨年度は2回行いました。他にも講師依頼が11回ありました。回復期リハ病院の職員研修などは、専門アドバイザーの先生とともに行う講演が多いです。また地域の自立支援協議会研修会、職業センター職員研修などからも依頼があります。

 講演の内容としては、病院では見ることのない生活の中の高次脳機能障害の大変な症状についてお話しています。相談会を実施しているのでいろいろな方の問題点が私たちには見えています。また、講演会の内容はテープ起こしをして冊子にまとめ会員さんに配布し、紹介をホームページにアップしておりますので、さまざまな地域から送付の依頼が来ます。特に「高次脳機能障害者のための年金と手帳の話」の冊子は、依頼がたくさん寄せられています。

 相談の時には皆さんにこの冊子を参考書のように差し上げますので、すぐに会員になっていただけます。家族会員は170家族、賛助会員は60名ほどです。

当事者家族支援事業に対する当法人の視点

就労支援について

 すぐに復職・就労を望まれる方は多いのですが、高次脳機能障害と診断されて、1年以内に社会復帰できる人はほとんどいません。障害の自覚のないまま社会に出ても失敗します。ですから、病院でのリハを終えて、すぐに復職・就労することは難しいと考えています。

 本人が「働きたい」と言うから就労支援をする、本人の強い思いがあるのならばできるだけ早く就労できるように支援すべきだ、という支援者も多いと思います。しかし、高次脳機能障害の場合、障害の自覚のない人ほど「大丈夫、できる」と言います。ですから、本人の言うことをそのまま実行に移すわけには行きません。きちんと段階を踏む必要があります。

 また、当事者を支援するには、当事者と同様かそれ以上に家族の話を聞くことが大切です。家族に障害への理解・認識がないと私たちの支援は、なかなかうまく行きません。このため、家族に高次脳機能障害を理解してもらう支援からはじめます。

どこからクラブハウスへ人が繋がるのか?

 いくつかのパターンがあります。

 ひとつは、家族相談会からつながるパターンがあります。とにかく、家族が入院して診断を受けたけれど右も左もわからず、情報がほしくて参加しました、ということがきっかけで、時期が来て、クラブハウスの利用に至るパターンがあります。他には、入院中の回復期リハ病院のソーシャルワーカーから見学を勧められるパターンもあります。病院での回復期リハを経て自立訓練施設へ入所や通所し、そのあとの通所先としてつながるケースもあります。

 症状が軽いとされて福祉サービスにひっかからずに退院し、就職活動をしてもうまく行かず、ハローワークからつながるケース、さらにはハローワークから職業センターでの職業評価を勧められ、評価の結果、「もう少しじっくり訓練したほうが良い」と職業センターから紹介されて来るケースもあります。40歳以上での脳血管疾患で介護保険の適応となったもののデイサービスに通うには若すぎて……とケアマネージャーから問い合わせがあってつながったケースもあります。

 クラブハウスを利用された後ですが、就労移行支援はハローワークや職業センターと連携して就職という形で次のステージへ送り出していきます。就労継続支援B型のほうも、クラブハウスがゴールとは考えておらず、状況にあわせて他の就労継続B型などに送り出していくことにしています。また就労継続支援B型から就労する人もいます。

 いろいろな機関からつながって、クラブハウスからも次のステージへ送り出していく、「次へつなげる」ということ常に意識しています。

クラブハウスでの支援の視点

 2011(平成23)年にクラブハウスが障害福祉サービスとなり、今年で8年目に突入しています。この8年間で、ぶれることのなかったのが作業の捉え方です。当法人での対応は、本人だけでの就労相談はしません。ご家族、または支援をしておられる方に一緒においでいただきます。

 当事者のお話では事実関係が十分つかめないことが多いのです。相談の中で、何に困っておられるのかをお聞きします。生活できないということであれば、まず障害年金の手続きを、事故であれば事故示談をどのように進めていくことが良いのかなどです。生活の安定ができていないと、訓練も続きませんし、仕事へ就いても長続きしません。安定して長く働き続けてもらうための支援を家族とともにします。

 ご家族とまず面談をして、高次脳機能障害の特徴を理解することから初めて、家族がよき支援者になってもらうことが大事なことをお話しいたします。

作業の捉え方

 クラブハウスでは、作業は、自分をわかるための道具である、仕事とのマッチングを図るためのアセスメントの道具である、という考え方をしています。工賃のための作業ととらえていないことが特徴です。

 作業の中に、はがき大の台紙に、試供品を貼りつける作業があります。 彼らはこの仕事に就くことを目指しているのではありません。この作業を通じて、見え方や手先の器用さ、枚数のミスの出方や仕事のペース、相談や報告のタイミング、周りの人との共同作業の仕方などを観察し、それを材料にその人自身と仕事について考える話し合いができることを目的としています。

作業内容の変化

 変化した1つ目は作業内容の変化についてです。老人ホームで活動していたころには、家族スタッフによる脳トレプリントを行ったり、調理や外出、廃油石鹸づくりの他、外部講師によるプログラムが月1回程度行われていました。今でいう、地域活動支援センターのような活動内容だったと思います。

 多機能事業所としてスタートした2011(平成23)年ころからは、当事者の作業を作り出すために、作業内容を増やし、石鹸を職員がつくったり、いろいろな内職を引き受けたりしました。しかし、作業を作り出すための仕事に多くの時間がかかったり、納期がまちまちの内職に振り回されて、就職活動に割く時間がとりにくくなったり、当事者にフィードバックがしにくく、気づきにつながらなかったりしたため、工賃が発生する作業内容を3つに絞りました。試供品貼付、掃除、石鹸作業の3つです。

 現在は、その3つの作業に加え、就労移行支援では、アセスメントとフィードバックがしやすいワークサンプル幕張版を活用しています。また、グループワークの時間を多くとり、話す、伝える、聞くといった機会を増やしてプログラムを構成しています。

利用者の目的の明確化

 変化したことの2つめは、利用者像を明確にしたことです。

 クラブハウスは、仕事をしたい望む人がその努力ができる場所でありたいと思っています。介護施設や、ただの居場所にはしたくないのです。

 クラブハウスの目的をはっきりさせ、利用対象者を以下のように決めました。具体的には、今すぐ仕事に就ける状況である必要はないが、いずれ仕事をしたいという意思があり、体験利用を通じて他の通所者とともに自分も向上していきたい、という意思がある方、トイレや食事および通勤が自分でできる方、としています。

育てる支援

 就労継続支援B型で基礎力を整えて就労移行支援に移って就職活動を始めるという流れが、現在クラブハウスの支援の大きな特徴となっています。

 初めから就労移行支援に入ってもらったがうまくいかなかった、という失敗をいくつか経験し、現在は、利用開始を決める前にいくつかの確認事項を決めています。
(1)手帳は取得しているか 
(2)年金の取得はできているか 
(3)事故の補償は終わっているのか 
(4)休職中の場合、いつが期限なのか 
(5)失業保険はいつまでもらえるのか 
(6)いつごろまでの就労をしたいと思っているのか

 これらの情報は、利用期間の延長がされにくい就労移行の2年間を一番有効に使うために確認しておくべき項目です。

 上記に加え、
(7)自分の障害をどのようにとらえることができているか
 を踏まえて、就労継続支援B型から始めるのがよいか、就労移行支援から始めるのがいいかを総合的に判断します。

就労継続支援B型「ワークステージ」について

 クラブハウスの就労継続支援B型を「ワークステージ」と呼んでいます。ここでの主な目的は、「障害の自覚」「生活リズムを整える」です。ここには、毎日平均して10名のメンバーが通所しています。年齢は20代~50代の男性が多く、60代や70代の方が1人ずついます。長く通っている方は5~6年で、早い方は1年未満で就労移行支援に移ることもあります。午前中はリハビリ的なプログラム、午後は作業が中心です。午前中の前半は新聞のコラムを題材にして、文章の内容を読み解くとともに、社会情勢や常識を学びます。後半は、コミュニケーショントレーニングです。自己紹介をする、他者の話を聞く、言葉の意味を考える、想像力を鍛える、メンバー同士で1つのことについて意見を言い合う、などの訓練をしています。訓練の内容は、その日のメンバーによって変えています。

 また、毎月、各自の目標を決め、月末に振り返りをします。目標を決めるときや振り返りの時は、本人だけでなく、メンバー全員にも意見を言ってもらいます。時には正直すぎて、きつい言葉もあります。誰かに何か言われると「でも」というメンバーがいます。そのメンバーに対して、「自分も以前はそういうところがあったからわかるけど、人からアドバイスをもらったときは、すぐに『でも』と言わないで一度考えてみることも大切だと思う」とアドバイスしたメンバーがいました。

 アドバイスした本人もまだまだできているわけではありません。こちらからみると、「同じだよ」と思ったりもします。高次脳機能障害特有の、自分のことは気付けないのに相手には厳しい、というところもありますが、口に出して言えるようになったことは一つの進歩ですし、言い合うことの良さもあります。私たちスタッフが伝えてもなかなか納得しないことも、訓練の中で同じ立場のメンバーに言われるとすっと入っていくこともあるようです。

 スタッフの伝え方も工夫して、わかりやすく、はっきりと短い言葉で話すようにしています。含んだような言い方や、気を遣って優しい言葉ばかりで言ってしまうと、言葉の裏を読むのが苦手な彼らには伝わらないことが多いからです。そのため、まわりで聞いている人には、きつい言葉に聞こえることも多々あると思います。一人のスタッフが話しているときは、横から口を出さないようにもしています。情報が多すぎると混乱してしまうことがあるからです。

 たまにですが、ワークステージから直接、就職する人もいます。失語症の人など、自信が持てず、「働きたい」と積極的に言えない人もいます。スタッフが求人票の中に「これは」と思うものを見つけて提示すると、「じゃあやってみようかな」とあっという間に就職が決まったこともあります。決めつけない支援、スタッフが柔軟な気持ちでいることも、この障害の支援には必要なのかな、と思います。

 高次脳機能障害がほかの障害と違うところは、「中途障害である」という点です。生まれつきの障害がある人と比べると障害と付き合ってきた年数が浅いわけで、それは、当事者はもちろんのこと、ご家族も同様です。

 障害になる前の自分のイメージが鮮明に残っていますから、「わからない」「むずかしい」と周りの人に言うのは「よくないこと」とか「恥ずかしいことだ」と思っていたりします。そして、「障害者の仲間入りをするようで嫌だ」と感じるかたもいらっしゃいます。誰だって、「できません」というより、「できます」と言いたいですし、前の自分に戻りたいと思う気持ちは、当然の反応です。そんな当事者と家族に根気よく働きかけていきます。

 例えば、当事者には、「『わからない』『できない』『困っている』と言ってもらうほうがいいんですよ。そのほうが、周りの人が何をサポートしたらいいか考えることができるから。助けてもらってできる、というのも、マルですよ」と。

 ご家族には、「ちっとも聞いていない、ということではないんですよ、注意が向かないという障害なんです。名前を呼んでから要件を伝えたり、書いて渡すというのもいいですね」と。

 ワークステージは、自分のできないところに気づき、「できないことがあるけれど、それでもいいんだ」と思うことができる場所でありたいと思います。ただ、そう思えるようになるまでの時間は人それぞれです。自分の障害に向き合うことでできることは増えていきます。その方向性を示して、優しく、厳しく 伝えることがワークステージの「育てていく支援」です。

 障害年金、示談など生活環境が整い、基本的な「ありがとう」「すみません」が言えるようになり、私たちスタッフが「この人と一緒に働きたい」と思えるかどうか。本人と家族の、生活と気持ちの安定が出来ているか。例外はありますが、そんなところが確認できたら就労移行支援にバトンタッチです。

就労移行支援「チャレンジ」について

 クラブハウスの就労移行支援を「チャレンジ」と呼んでいます。ここでの主な目的は「自分を知る」と「折り合いをつける」です。

 チャレンジには現在、毎日平均8名のメンバーが通所しています。年齢は、30代から50代の方です。就労移行支援の支給決定期間は2年間ですが、おおむね利用を開始して6カ月ら1年8カ月くらいで就労につながっています。

 プログラムは週5日、10時から15時まで、コミュニケーショントレーニングをはじめ、試供品作り、掃除などの作業、ワークサンプル幕張版を使った評価などを行っています。

 自分が働ける条件について具体的にイメージするために、企業見学や体験実習に取り組みます。実際にやってみることで、仕事内容、通勤時間、勤務時間の「ちょうどいい」を実感してもらいます。

 Aさんは実習を通して気づけたことがあります。以前は営業職で電話対応や外回りもしていたが、今は繰り返しの仕事が向いている。1時間かけて満員電車で通勤をしていたが、今は人ごみが苦手で座っていないとつらいため、ラッシュ時間を避けている。正社員で8時間勤務、残業もしていたが、今は4時間勤務が精一杯。

 たいていの場合、受傷前に働いていた条件とは異なります。今の自分に「ちょうどいい」と前向きに折り合いがつけられるようになると、長く働き続けられます。

 高次脳機能障害は周囲の人から見た場合も、本人にとっても、わかりにくい障害です。日頃の生活の中では、なんとなくごまかしてきたことが、ワークサンプルをすることで見えてきます。指示がうまく聞けていないこと、思い込みで作業を進めてしまうこと、指摘されても修正できないこと、そんなことが明らかになります。

 事務作業の仕事に就きたいと言っていたAさんですが、パソコン作業はミスも多く、時間もかかりました。しかしプラグタップの組み立てでは、スタッフが一度組み立て見本を見せただけで、ミスなく組み立てることが出来ました。このことで自分には軽作業が向いているかも、と気づきました。

 今は軽作業の仕事に就く方向で就職活動を始めています。苦手だと思い込んでいた作業が好きだったり、出来ることが分かったりしたという発見もあります。

 Bさんは、試供品貼りの作業をするときに作業終了の時間に仕事を終えることができません。まわりのメンバーは、きちんと片づけがおわっているのですが、Bさんはいつもみんなを待たせてしまいます。そこで、スタッフは想像しました。「手元の作業に集中していると時計に注意が向きにくいのかな?」、「時計を読むことが難しいのかな?」、「あと10分でどれくらいの作業ができるのかの見通しを持つことが難しいのかな?」などです。

 それに対して、3つの対応法を考えました。携帯のアラームを10分前にセットして音で注意を向けてみる、アナログではなくデジタル表示の時計を使ってみる、ストップウォッチで作業時間を測り、10分でどれくらいの枚数仕上げることができるのかペースを把握できるようにしてみる。Bさんと相談しながら、まずはじめの2つに取り組んでみました。

 その日の終礼でBさんは「アラームを使うのはよかった。デジタル表示が見やすいので、働くときにも自分のデジタル時計をつけて仕事をしたいと会社に伝えたい」と話していました。

 作業を通して、自分にはできないことがある、こんな工夫をするとやりやすい、と本人が気づくということが大事です。

 大切なのは、仕事が出来るか出来ないかだけではありません。高次脳機能障害の人の就労で問題になることの一つにコミュニケーションがあります。

 自分が相手にどう見えているか、発した言葉が相手にどう響くのか、言えなかったことが相手にどう思われるのか。こうしたことを考えるのが苦手です。

 分かっているつもりでも言葉や態度にあらわすことは難しいままです。チャレンジに移ってきてもコミュニケーショントレーニングは必要です。

 職場の人に興味を持ってもらえること。上手に人の手を借りる才能を持つこと。それが大事なことだと、医師であり当事者である山田規畝子さんが言われていました。

 失敗を指摘されたとき素直に謝れなかった。助けてもらった時お礼が言えなかった。これが職場だったら、とイメージし、そんな時はどうしたらよかったかをメンバー全員で考える時間は、大切なプログラムの一つです。

 本人の努力と共に家族による支援、協力も大切です。最初はスタッフから見ると支援の対象だった家族(声のかけ方や、不安の相談にのっていた)がいつの間にか当事者をうまくサポート出来るようになっています。家族も一緒に育っているのですね。

 お気づきと思いますが、チャレンジもワークステージと同じように育てる支援には変わりありません。ただ、チャレンジは具体的に仕事がイメージできるようなプログラムになっています。

 支援の視点は一緒です。

家族会について

家族相談会について

 広島県には2006(平成18)年から県に高次脳機能センターがあります。場所は東広島の県立障害者リハビリテーションセンター内で、広島市からは通うには時間がかかります。その上、対象者である高次脳機能障害者の半数が広島市の在住者であるにもかかわらず、政令指定都市である広島市へ、県の情報はなかなか広がっていませんでした。広島市長へ「もっと理解や啓発を」と求めてはいましたが、新しく作られた広島市総合リハビリテーションも、身体のリハビリは行うが、高次脳機能障害者は専門機関として県リハがあるのであえて行わないと言う状況でした。この時点で広島市は、高次脳機能障害者はあまり存在しないと思われていたかもしれません。

 広島市の啓発を進めなくてはと思っているとき、2010(平成22)年度に広島市公募提案型協働事業の募集があり、行政との協働で家族相談会ができたら、広島市への啓発が広がると思い応募しました。

 この協働事業を1年間実施した成果により、今後も必要な事業と認められ広島市高次脳機能障害支援事業として広島市の障害福祉計画に位置づけられ、その委託を受けて現在も実施しております。

 行政との協働事業となったことで、広島市の各区役所の保健師さんや、医療機関相談員さんが毎回2~3名、家族相談会に参加されています。グループに参加して、家族の実態を知っていただくことで、窓口でこの相談会を紹介してくださることになり、相談件数が増えました。医療機関からの問い合わせも増えて、クラブハウスへの見学者も多くなりました。また、ケアマネージャーや地域の研修会などで職員が講演する機会も増えております。

 私たちの民間活動は独自では広がりません。家族相談会も広島市の委託を受けて行政とともにお互いの立場を理解して協力し合うことで、活動が広がってきています。

 家族相談会はグループ形式で実施しています。障害のために起こる様々な問題や困りごとを共有し、体験者から助言を交えて話し合うことで障害の理解に結びつくように努めています。

 体験をした家族のほかに、長年当事者とかかわりを持ってきた社会福祉士や言語聴覚士、法律事務所助手がスタッフで関わっているため、福祉サービスや地域での支援などは社会福祉士が対応し、事故示談や法律的なことは法律の専門家が対応しています。また、就労についての相談にも対応できます

 家庭での生活については、体験者がアドバイスを行い、なぜそのようなことが起きるのかは言語聴覚士から専門的な説明があります。

 午後は予約で個別相談を受けております。

相談会に参加して……

 定期的に開催される相談会に毎回参加することで、気持ちが前向きになってきて障害を受け入れられるようになっているご家族が多いようです。

 初めての人から5年10年たっている人と様々です。体験者から先の見通しを聞くことで心の準備が出来ます。今は大変な時期だけど、ずーっとこのままではない、必ず今より良くなる、障害がなくなりはしれないけれど、前より良い人生は自分で掴み取ることが大切だと、いつも皆さんに伝えています。

 家族が相談会に参加することで、お互い励まし合い、自分の経験が人の役に立つことがわかり、元気のもとになって行きます。障害がなくなりはしないけれど立ち向かう強さが出来てきます。

 家族が元気になることで、当事者に対する家族の声掛けが変わってきます。家でのケンカが減り、穏やかに生活できるようになってきます。するとひきこもっていた当事者も外に出かけてみようかなと変化してきます。家族と一緒に個別相談に来るようになり、それがきっかけで、クラブハウスへ通い始めた当事者もおられます。

 相談会に毎回、続けて参加されることで、家族は生活の中での問題が高次脳機能障害のせいなのだと気付きます。

 診察室での医師と本人とのやりとりだけでは見えにくい障害ですが、生活の中で見えたことを家族が受診のときに伝えて行くと、障害年金の診断書にも反映されるようになって行きます。

広島県の体制について

 最初は県の拠点として県リハに高次脳機能センターが設置されていただけでしたが、現在は、高次脳機能障害の地域支援拠点病院として8カ所が県に指定されています。あくまでも指定されているということで、検査ができるとかリハビリができるということではなく、県リハへ繋ぐことがほとんどです。

 星印のところは家族相談会を実施しているところです。広島市のように行政からの委託ではありませんが、家族会の活動として相談会を行っております。相談に対応する担当者は地域の家族役員ですが、役員も勉強をして、相談応じるスキルを身につける努力をしております。最近では、地域拠点病院のソーシャルワーカーや療法士さんが家族相談会に参加され、病院の情報や家族の想いが共有できる場になってきています。高次脳機能障害は社会に出てから現れる症状が多いので、家族にはそれに気づいてもらい、医療関係者には生活の場面で現れる症状を理解してもらう場になっています。

なぜ私が家族支援にこだわるのか?

 第一の理由は、当事者の話だけでは正確な情報が得られない。ということです。外見が普通に回復したら、みんなすべて回復したと思います。私も娘が退院して戻った時はこのまま元に戻ると思っていました。その後、日々の生活の中で普通だと思って接する中で、「えっ!」と思うことがあり、言っていることも妄想なのか、事実と違うことを言うので、「そんなことあるわけないじゃない」と言うと、途端にキレてしまうことがしょっちゅう起こり始め、元の娘ではないんだと思いました。記憶障害があったり、事実の受け取り方が偏っていたりで、本人がきちんと自分の状態を言えないことが問題です。

 第二に、この障害は体験したものでないとわからないことがたくさんあります。記憶障害も全く忘れてしまうわけではありませんし、普通の人でも度忘れ、物忘れをします。忘れることがそのちょっとした物忘れぐらいにしか見えないことが多いのです。だからなかなか気づかないことがあります。私の娘も検査では重い記憶障害と言われましたが、日常生活では、自分の興味のあることはしっかり覚えています。しかし、だれが言ったことなのか、いつの事なのか、時系列が混乱するため、本人の言うことは嘘のようになります。また、常識で考えられないことが起こりますので、家族にとっては、体験した家族に話すことが、一番伝わり、ほっとされるようです。

 第三に、高次脳機能障害は本人の障害自覚がないことが一番の問題です。いろいろトラブルが起きても、自分は問題を起こしていないと思っています。そんな本人にいくら諭しても、良い結果にはなりません。

 なぜ、言っても聞いてくれないのか。これは私が7年間苦しんだから良く分かります。なぜそんなことが起こるのかの理由が分かれば、対応法は見えてきます。その体験があるから、家族は早いうちに障害の理解をすることで、当事者たちを正しく導けると思うのです。

 この私の体験から家族相談会を実施しています。

最後に

 わたしの娘は発症から24年も経っています。去年=2017(平成29)年=の5月までは就労継続支援A型事業所であるビジネスホテルの掃除をしていました。5年も勤めて本人としては続けて働きたかったようで、職場さんからもなぜ辞めるのか惜しまれておりましたが、職員体制が不十分で、他の障害者の方とお金の貸し借りなどの問題が起きました。記憶障害が重いので当事者を責められませんし、かといって環境が改善されるわけでもなかったため、本人を納得させて辞めさせました。本人は月に5~6万の給料がもらえることが惜しい気持ちだったようですが、お金をいくらもらえても、お金の管理はすべて私がしておりました。「大きなお金がある」と思うだけで気が大きくなり、何かがなくなればすぐに「買えばよい」と言い出す状況でした。現在は、クラブハウスへ通っております。

 わたしがこのように事業を始めたり、会の代表をしたりしていつも忙しくしていたもので、本当に娘と向き合っていなかったと思っております。クラブハウスで、私は直接指導はしておりませんが、職員から聞く言葉に、なんと障害の重いことと日々実感しております。

 たとえば、昨年退職したことで失業保険をもらっており、毎月1回ハローワークに行くのですが、一人では行けません。相談事業所の支援員さんにお願いして同行してもらっていますが、毎回、何の書類を持っていくのかがわからず、不安でイライラすることもたびたびです。支援員さんに「今日の書類は?」と言われても何のことかわからない。自分が分からないことは棚に上げ、支援員さんの言うことが理解できないため、「わかるように説明してくれない」と人のせいにしています。

 今はこの子が一人で生きるためには、社会に高次脳機能障害の理解が進まないと誰も助けてもらえない、そんな思いで地元の福祉のネットワーク会議や理解のための研修会などをお願いしながら、とにかく福祉サービスを利用するようにしております。相談員さんも毎月娘の支援をするたびに色々なことが起こり、大変だと気づいてくれています。私が出張など家を空けるときにはショートステイを利用しています。トラブルはしょっちゅう起こりますが、家で一人で過ごせないわけでもないため、ショートステイへ行かせる方がとても大変なんですが、それも今後のためと思い、利用しています。

 高次脳機能障害者は自らが困った事を説明できず、何でも「大丈夫」と言ってしまい、正しいことが伝わりません。家族が元気なうちに、周りにこんな障害者がいるということを伝えておくことが、家族の役目だと思います。先日も山口県から広島県へ家も土地も売って移り住み、県リハの近くに引っ越してリハビリを続けていたご家族がいました。

 リハビリで自立できるようなレベルではなく、大きな声を出したりするので、精神科へ入院させられたこともあり、お母さん一人での支援は大変で、お母さんまでうつ病になりました。お母さんが入院したことで、彼女がやむを得ず施設へ入り、母親に依存できない状況の中で自ら伝えることができ、何とか過ごせたそうです。お母さんはそのことで、「自分が抱え込んではいけない」と気づかれたそうです。家族会の相談会にも毎回参加されるようになり、病院に頼ってもすべては解決してもらえないと思われ、自分が倒れたらどうしようと少し焦った気持ちになり、受け入れる施設を探し始めました。私も高次脳機能障害者を家で面倒見られない方が入所している良い施設の情報がありましたので、二人で見学に行きました。

 その時に施設長さんが言われた言葉に、「だれでも家が一番いい、できる限り普通に過ごさせてあげてください。うちの施設は最後の最後、どうにもならないときに利用したらいいですよ。お母さんが倒れるようなことが起きれば二人そろって入所も可能だから」。その施設はサービス付高齢者住宅ですが、年齢が65歳未満でも、どこも受け入れができない人、一人暮らしの人などを受け入れているところです。早めにいろいろな情報を手に入れて、先はこうしたらよいという心の準備をしておいて、今できることをするのが良いのだと思います。

 当事者にお金を残すことは、かえって揉め事になることもあります。

 地域で過ごせるような環境作り、高次脳機能障害者がいるから福祉サービスも充実してくださいと家族が言わないと、行政には対象者がいないと思われてしまいます。

 見えない障害だから、隠していた方がと思うのは当事者家族だけかもしれないです。周りは変だなと気づいています。

 親亡き後どうしたらよいのかとよく相談を受けることがあります。一人暮らしになってしまい、生活やお金の管理などどう支援したらよいのか考えさせられるケースもあります。でも福祉の窓口は何とか考えてくれています。こんな見えない障害が存在することをもっともっと社会へ広める努力が必要で、当事者たちがもっと胸を張って生きていける社会にしていかなければいけないと、今も問題のある当事者の相談があるたびに心が熱くなります。