交通事故発生

 事故が起きたのは1997(平成9)年11月16日(日)午前6時半ごろのことだ。松田さんはこの日消防団の訓練があった。消防団の部長だったので、団員を消防屯所に集合させ、自分は準備のために、数百メートル離れた大田小学校の運動場に向かった。

 その途中の交差点で事故に遭った。相手は乗用車で、赤信号を無視して交差点に突っ込んできた。松田さんが乗った軽乗用車の左側から衝突し、弾みで車は交差点の右斜め前に位置する住宅の壁に衝突する。

 フロントガラスはクモの巣状態。助手席はぺチャンコ。助手席の窓ガラスを破って松田さんの上半身が出ていた。すさまじい衝撃である。

 119番に電話したのは近所の顔見知りの人だ。ものすごい音がしたので外に出てみたところ、軽自動車が壁に衝突しており、助手席から上半身が出ていた。松田さんだ。意識を失っている。慌てて119番に電話をかけた。

(写真=前から奥に向かって自動車で走行中、交差点の左から来た自動車に衝突された)

目撃者

 目撃者がいた。加害者の車の後ろを走っていた大型タンクローリーの運転手・高瀬さんという会社員である。岡山市のオカケンという運送会社でLPガスのタンクローリーを運転している人だった。

 一部始終を目撃した高瀬さんは福山市内から警察に電話をかけ、「赤信号なのに前の車が止まらず、減速しないで交差点に入っていった。今日は仕事で警察に行けないけれど明日必ず行く」と伝えていた。加害者側が信号無視をしていたことを警察で証言している。

(写真=オカケンのトラック)

入院

 松田さんは世羅中央病院に搬送された。処置室に運ばれたところで妻睦子さんが駆けつけた。ひと目見て「あ、死んでる。どうしよう。葬式をしないと」と思った。息子の同級生の母が看護師だった。「心臓動いてるからね」と言われ、ほっとした

 意識は数時間後に戻った。

 事故後、病室に加害者が来て土下座した。50歳前後。背広姿だ。交通事故は誰が加害者になって誰が被害者になるか分からない。土下座している姿を見て睦子さんは気の毒に思った。夫は命を取り止めたと思って安堵したので、「いいですよ」と答えた。「お父さんいいよね」と問いかけると、「うんうん」とうなずいた。

 意識が戻った後、松田さんの手が踊るように動いた。「手が勝手に動く」。不思議だった。

 意識が戻ったのはいいが、誤嚥性肺炎になったばかりかメチシリン系耐性黄色ブドウ球菌(MRSA)に感染してしまい、無菌室に入ることになった。当時岡山で短大1年生だった娘が毎週末来てくれた。松田さんの両親も来てくれて、家族が24時間体制でスケジュールを組んで看護することができた。

(写真は世羅中央病院)

次々に変わる症状

 世羅中央病院には2カ月弱入院した。最初の1カ月ほどは2人態勢で見守った。この間の看病が大変だった。

 松田さんは40度台の熱が出て意識もうろう。心臓に24時間点滴。しかし、暴れる。泣く。点滴を抜く。目がギンギンに輝き、睦子さんが見たことのない顔つきになった。歩けないのにベッドから降りようとする。オムツを取ろうとする。真夜中に服を脱いで裸になる。着せようとすると怒る。

 松田さんは昼夜が逆転していて、朝の6時半頃に寝付くまでは付き添いの家族は気を緩めることができない。

 家族が松田さんに何か言うたびに松田さんは「何を言よるんや」と怒って手が出る。

 病院着を脱ぐ。破る。睦子さんは涙を流しながら何度も縫った。

 長男が付き添っていたとき、松田さんは「天井の電気に向けて放水しろ」と命じ、放置しておいたら怒りだしたので、長男は言われるとおりに天井に向かって放水する真似をした。消防団の部長としての責任感の片鱗を見た思いがして、睦子さんは今も忘れられない。

 症状は次から次に変わり、どうなるのかと睦子さんら家族は不安な毎日を過ごした。

点滴をしている間、口の中はまるで岩のようだった。熱が下がって点滴がとれ、口から物を入れることができるようになると体が回復して口の中がピンク色に染まった。

 ふくらはぎは皮だけになっていた。ベッドの上でご飯を食べさせた。松田さんは両手で手づかみで食べた。まるで狼少年である。睦子さんは泣いた。「お箸で食べなきゃ」「もうええ」。注意された松田さんは子どもがダダをこねるような感じでベッドの上で背中を向けた。

 冬なのに「夏じゃ」。子供2人なのに「子供は3人」と言う。当時は高次脳機能障害の症状をほとんど誰も知らない時代だった。

 歩くことがある程度できるようになった。リハビリは自宅のほうが効果があると睦子さんは思った。「先生、家に帰らせて。毎日リハビリに通うから」と医師に頼んだ。「帰ったら大変ですよ」と言いながらも医師は渋々認めてくれた。

 主治医は診断書に高次脳機能障害と書いてくれたが、それ以外に何の情報もない時代だった。

 そこで、MRIのある病院で脳を撮ってもらった。びまん性軸索損傷と診断された。 一部位だけ出血して損傷しているのではなく、広範囲に損傷しているということだ。

 当時睦子さんは個人病院の耳鼻科の受付の仕事をしていた。院長の理解があり、仕事を休ませてもらっていた。

退院

 退院翌日出会うことができたのが、静岡県浜松市の病院で高次脳機能障害の患者さんと関わっていた看護師だ。高次脳機能障害の説明をしてくれ、「お母さん一人が頑張ったら倒れてしまうよ」と言ってくれたおかげで、このあと睦子さん一人が抱え込まずに済むことになった。

 松田さんと一緒に帰宅して少しは安定したが、目つきがギンギンで、睦子さんは怖いと感じた。

 手が出る人ではなかったのに、気に入らないことがあると手が出る。何かの時に胸をどんと突かれたことは今でも忘れられない。

 松田さんが寝ているときは家族みんなが静かにした。起きたら大変だから寝ていてくれる方がありがたい。

 退院して最初のころ、松田さんは一日中ぼーっとテレビを見ているような状態だった。何かをしようという意欲がない。言われれば行動に移すが、自分から積極的に行動することはない。

 前述した高次脳機能障害に詳しい看護師の「毎日1万歩歩きなさい」という助言を踏まえ、雨の日も雪の日も8000歩から1万歩ほど歩いた。松田さん一人が散歩することはないので、毎日睦子さんが服を着替えさせて一緒に歩いた。

 散歩しても松田さんの記憶に残らない。そこでリハビリの本多先生の助言を受けて、病状が落ち着いて以降、松田さんにデジカメを持たせた。写真を撮って、画像を毎日パソコンに入れるのを日課にした。松田さんの記憶に残らないから、パソコンで記録に残すことにしたのである。

(写真=松田さんが部長を務めた世羅町消防団の分署)

実家の協力

 松田さんの退院から3年ほどは週に4日、松田さんの実家が預かってくれた。前述の看護師の「お母さん一人が頑張ったら倒れてしまうよ」という助言を松田さんの兄夫妻も聞いていたのである。

 実家は酪農を営んでいた。朝の8時半に松田さんの父が車で迎えに来て、実家で農作業を手伝わせるなどして、規則正しい毎日を過ごした。

 睦子さんは仕事を続けた。夕方になると夫を迎えに行く。その車の中で泣けてくる。車内で何度も大泣きした。子供の前では泣かないと決めていたが、一人で過ごす車の中では気が緩んだ。

事故から1年半

 事故から1年半以上経っても、松田さんにはさまざまな症状が出た。起こさなければ昼間でも寝ている。時間を見ながら行動することができない。時間の配分もできない。事故に遭う前は時間に厳しく、早め早めの行動をしていたのに、まるで別人だ。

 リハビリの一環として記憶の補助に手帳を使うのだが、手帳に書くことを忘れてしまう。

 仕事に行っていない自分は馬鹿になったと引け目を感じている様子だ。穏やかな人だったのにとても感情的になることがある。

 生活や仕事の面で気になることがあると、松田さんは数分間に何回も同じことを言う。しかし松田さん自身は何回も言っている自覚がない。

 松田さんには複視という目の障害が残った。階段の上から下を見下ろすと、階段の線が交差したり二重に見えたりする。道端の石も2つに見える。道路の中央線も二重に見え、前から来る車が2台に見え、車間も分からない。怖くてハンドルを握ることができなくなった。

回復の兆しが見えない

 松田さんの判断力の欠落を垣間見て、家族が心折れることも数え切れない。あるとき松田さんが兄と一緒に仕事をしていたときのこと。兄がトラックに荷物を積んでいたら、松田さんが近くのビニールハウスから電気ポットや花の苗などを助手席に運び込んだ。「どうしたの」と聞いたところ、「いらんのじゃろうけぇ、もらって帰る」と言ったという。兄はすぐに元に戻させたが、とてもショックを受けた。「まるで子供と一緒だ」と兄の嘆きに、睦子さんは悲しさがこみ上げた。

 松田さん本人が感じている障害と実際の障害にはズレがある。それを本人に理解させるのは難しいことだった。

 松田さんは早く社会復帰したいと思っていて、家族もそれを願っていたが、回復の兆しが見えなかった。

 貯金が底を尽き、年頃の娘の結婚費用を心配し、高校生の息子の大学進学費用もどうすればいいか見えない。不安が募る一方だった。

(写真=松田さんの散歩コースの光景)

経済的問題に直面

 会社は「いつまでも待つ」と言ってくれた。完治すると疑っていなかった。松田さんも「あしたから会社に行けるし、今までのように仕事ができる」と職場復帰の意欲を語っていた。しかし、松田さん自身が思っている以上に大きな障害が残っていることを本人が理解できない。「会社に行っても失敗しない」と主張する。その言葉はしっかりしているし、理屈も通っている。

 しかし、家庭内のリハビリがうまくできずに松田さんが気分を損ねてしまうと、「ワシは下の下じゃのう」とうつ状態に陥る。

 睦子さんは子供に教えるより大変だと何度も思った。

 12月のボーナスはもらったが、給料はストップした。経済的問題に直面した。

 会社は3年待ってくれたが、最終的に自主退職した。その後失業保険を1年8カ月分もらった。消防団の活動中だったので自治体から公務災害の扱いを受けた。

実家で働く

 松田さんを預かってくれるようになって3年後、実家がジェラート工房を開いた。睦子さんは「夫を一人行かせるわけにはいかない」と考えた。自分のそばに置いておくほうが安心だ。実家への恩返しにもなる。睦子さんは仕事を辞め、松田さんと一緒に工房で働くことにした。

 カップとふたのシール張りなどを松田さんは手伝った。松田さんはシール貼りを上手にできた。ただ、仕事の運び方でうまくいかないことがあった。作業の順番が変わると途端にできなくなる。

 箱に容器を詰める際に少しでも隙間があると埋めようとする。筆箱に鉛筆を入れると、鉛筆には長短があるものだから短いところにすき間ができる。松田さんはそこに何かを埋めようとする。どういうわけか隙間がダメだった。

 松田さんに睦子さんが何か言っても聞く耳を持たない。「お父さんこれは」と妻が言っても、「言われんでもできらぁ」。できていないから言うのだが、睦子さんには反発した。怒って工房を出て行くこともあった。

 それでも9年間近く仕事ができたのは、身内と同僚の理解に包まれた環境だったからだ。松田さんは同僚の言うことは聞いた。

事故から10年経っても

 事故から10年以上経ったころ、松田さんが顔面神経麻痺で入院したことがある。入院の日、睦子さんが付き添い、帰宅したあとの午後11時過ぎ、松田さんの携帯から電話がかかってきた。「わしや~、どこにおるんやぁ? 倉庫みたいなところで、帰ろうにも服もない!」

 病室でひと眠りして目が覚めたら、入院していることが分からなくなっていたのである。ものすごい剣幕で、パニックになっていたのだった。

 睦子さんは病院に電話をかけ、看護師に対応してもらったものの、その夜は眠ることができなかった。退院させると決めて病院に申し出たが、主治医は「一緒に頑張りましょう」と応援の言葉を語った。

 退院までの2週間、病院全体の支えを感じたのか、松田さんは「まだおってもええ」と言うほどだった。睦子さんは1日のスケジュールを紙に書いて、終わったら松田さんがチェックするルールにした。その紙を見た看護師が「次は歩くんよね」と声をかけてきたり、看護師長が病室に毎日来て話をしたりするなど、総力で看護してくれた。

 睦子さんが何か指示すると松田さんは怒るので、リハビリの先生など松田さんが信頼している人の声をボイスレコーダーに録音して、時間が来たら音声が流れるよう設定した。「起きましょう」や「血圧を測りましょう」など、最低限やるべきことである。ただし聞き流すことがあるので見守りは必要だ。

2011年

 2011(平成23)年、松田さんは東広島市の障害者支援施設に入所した。同じ障害を持つ人同士で人間関係ができればと睦子さんは期待したし、「これで夫と少し離れることができる」とひと息つけるとも思った。

 しかし、専門職がいる安心できる場と思って入所したのに高次脳機能障害者に対する理解がなく、声かけなどをしてくれず、ほったらかし状態だった。高次脳機能障害の人同士が一緒に何時間いても、ほかからの声かけや誘導がないと何も起きないことを睦子さんは知った。松田さんは妻睦子さんがいない環境にストレスや不安を感じたようだった。

 生活自立訓練は2年あるのだが、4カ月で入所を終え、残りの1年8カ月は通所した。2013(平成25)年、就労継続支援B型事業所のパン屋に通った。以前からの知り合いで、高次脳機能障害になった人が通っていたので、松田さんも通うことになった。

 ところが数カ月したころ、松田さんの様子に変化があることに睦子さんは気づいた。聞いてみたところ、パン屋に通っている仲間の1人から強い口調で言われていた。それが「しんどい」ということだった。鬱々としながらも我慢していたが、睦子さんが通所の曜日を変えてその人に会わないで済むようにした。

 高次脳機能障害の人は「現状を自分で変える」のが難しいので、見守っている人が気づく必要がある。例えば「仕事を始めること」も難しいし、いったん始めたら、「仕事を止めること」も難しい。周囲が見れば本人は疲れてボロボロなのに「疲れてない」と主張して仕事を止めない。

 健康管理も大変だ。松田さんは食べ過ぎて体重が1日に3キロも増えたことがある。お客さんが来て、大きな皿に料理を並べると食べてしまう。ホテルのバイキングも取りすぎたり、かと思うとほとんど取らなかったり、安定しない。空腹や満腹の感度が薄くなっているようなのだ。

先が見えない

 体力も身体も元に戻ってきたが、昔と全然違う変な夫がいると妻は思った。泣いたり怒ったり暴言を吐いたり手が出たりするのだ。さっきのことが覚えられない。同じことを何度も聞いてくる。記憶障害は今も残る。

 仕事をバリバリやっていた松田さんが1日中誰かの見守りの中で暮らしていた。先が見えない状況で離婚する人が出てくるのは理解できないわけではない。松田さんは消防団では部長、会社では営業部長として新人教育をするなど、公私にわたって面倒見のいい人だ。睦子さんはそんな夫を見てきたので、事故で夫が変わったからといって離婚しようということにはならない。

 松田さんの障害は生活に支障を来す。そもそも記憶がないので、約束をすっぽかしたり、集合時間に遅れたりする。友人との思い出話についていけない。自分ひとりで予定を立てることができないので睦子さんの手伝いが必要だった。

高次脳機能障害を隠さない

 松田さんの高次脳機能障害について隠さないことを基本にした。子供も自然に「これがお父さんの障害だ」と受け止めた。2014年の年末、広島県世羅町の広報から「高次脳機能障害について書いてほしい」と求められ、実名で書いた。「大変だったんだね」と声をかけてくれる人もいれば「実名での掲載は恥ずかしくない?」と言ってくる人もいた。

 隠そうとする人がまだまだ多い。偏見や同情などがあることを睦子さんは息子と話したことがある。しかし、しょせん他人である。家族には大事なお父さんなのだ。

 松田さんの病気を公にすることで近所の人にも助けられるようになった。外見が今までと何も変わらないだけに、高次脳機能障害がどのような病気なのか周囲の人に知ってもらうことで、いざというときに大勢が手を差し伸べてくれる。

 例えば、高次脳機能障害は物事をきれいさっぱり忘れる傾向があり、松田さんは言われたことを覚えていない。近所の人が睦子さんに「あした何時に出るけえの」と言ってきた。睦子さんには何の話か分からない。よくよく聞いてみるとウォーキング大会に誘ってくれていたのだった。睦子さんが松田さんに聞いたところ、やっぱりきれいさっぱり忘れている。「うちのお父さん、忘れるのよ」と一声かけると、次から睦子さんにも伝えてくれるようになった。隠すことで得をすることはない。隠さないことでみんなが協力してくれる。

 精神的にしんどいことが数え切れないほどあった。家族だけで頑張ろうと思ったが、助けてくれる人がいた。後で恩返しすればいいと思って、素直に頼った。

訴訟

 話は事故から1年半経った頃に戻る。

「症状固定してください」と保険会社が医者に求めてきた。当時は高次脳機能障害の「こ」の字も知らない。賠償金の妥当性もわからない。保険会社がいろいろ言ってくるが何を言っているのかわからないので、松田さんの兄に対応を頼んだ。松田さんの体はどんどん良くなっていったので治ると睦子さんは当時思っていた。

 加害者側が示談交渉してきた。兄夫婦が中井弁護士を知っていたので相談したところ「裁判をしたほうがいい」と助言された。裁判で正しい等級を認定してもらって、正しい賠償金をもらう必要があった。保険会社に「弁護士を頼もうと思う」と話したところ「それがいい」と言われた。加害者側の保険会社の担当者は珍しくいい人だった。

 それまでも自賠責の本を買って勉強していたが、意味が分からなかった。弁護士に頼めば被害者家族が保険会社と直接話すことはない。専門知識を持つ弁護士が対応してくれるので家族は助かる。

 事故からおよそ2年後の1997(平成9)年9月、広島地裁に提訴した。積み立てていた貯金を解約し、失業保険で生活しながら裁判を続けた。

加害者の“誠意”とは

 事故の日、ある人が病院に見舞いに来てくれた。そのとき廊下でこう言われた。

「奥さん妥協しちゃいけませんぞ」

 その意味がようやく分かってきた。

 加害者は出張先からみかんを送ってきた。そのことを裁判で誠意の一例として出してくる。 裁判対策でみかんを送ってきたのかと受け止めざるを得なくなる。

 裁判は刑事訴訟、民事訴訟の順番で行われる。不起訴、罰金、禁固、懲役という順番で重くなる。加害者の中には少しでも処分を軽くしたいと考えて、誠意のようなものを見せようとする人が少なくないと言われる。みかんを送ってきたときは誠意だったかもしれないが、裁判に出した途端に被害者は疑いの目をその“誠意”に向ける。

 加害者は最初の頃見舞いによく来た。松田さんが肉体的は回復していたので、加害者側も安心したのだろう。ところが退院したら少しずつ来なくなった

 裁判の前、睦子さんは加害者の家に電話をかけた。松田さんの大変な状況を睦子さんが話したところ、加害者の妻は「うちはもう罰を受けました」と言い放った。睦子さんから見ればわずか30万円の“罰”である。この言葉を聞いた睦子さんの胸の中で、何かが音を立てて割れた。

 加害者側の生活は何も変わっていない。加害者にとって事故は過去のことなのだ。そういう人たちに被害者の気持ちを言っても分かるわけがない。被害者になったら負けなのだ。悔しかった。

知っておきたい仕組み

 症状固定までは給料分のお金を休業損害として加害者側の保険会社から受け取った。症状固定されると、この休業損害は止まる。

 地方自治体から公務災害の補償を受け取っていたので、睦子さんは「国の障害年金はもらえない」と思い込んでいた。

 60歳になって、老齢年金の手続きをするために三原市の年金事務所(年金機構)に行った際、松田さんの高次脳機能障害を話したところ、担当した社会保険労務士が運よく高次脳機能障害を知っている人だったようで、高次脳機能障害の申請に必要な書類を渡してくれた。

「えっ? そうなんだ」。こちらから手続きに行かないとお金は入ってこないことを睦子さんは初めて知った。高次脳機能障害を分かっている家族でも、「知らないこと」を知らないのである。

 言語聴覚士の本多先生の勧めでリハビリを受け始めたころからずっと日記をつけてきた。そのおかげで松田さんに日々どんなことが起きたかを書類に書くことができた。

 この経験から、睦子さんは相談に来た人に対して出来事を具体的に記録するようアドバイスしている。

闘いは続く

「事故から何十年経っても、大きなことから小さなことまで事件は日々起きる」と睦子さんは言う。

 夫は切り替わる(元に戻る)ことができないから、自分を切り替えるしかない。最初の数年は一番しんどい。家族は大変な思いをする。人によって違いはあるが、3年や5~6年くらい経つと家族は気持ちを切り替えて前に進むことになる。闘いはずっと続く。ここがピークかと思ったら、またピークが出てくる。ヘトヘトになる。

 高次脳機能障害は医療の中だけで見えるものではない。本人が生活に戻ってから家族は高次脳機能障害との闘いになる。だからこそ、闘う家族を支援する家族会は重要だ。安心できる場を提供したいと睦子さんは考えている。